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仮編自走砲鷲見中隊 戦闘記憶 

ー昭和十九年十二月八日ー昭和二十年八月二十六日ー

昭和十九年十二月八日仮編自走砲鷲見中隊の編成(同年十二月二十一日門司港出発)ルソン島リンガエン上陸、中部ルソン島クラクフィルド飛行場に於いての戦闘状況、ピナツボ山(日本名信濃山)-江口支隊本部ー東南一・五キロメートルの林中にて自滅するの私の知る限りを綴ります。

ー編成ー
野戦砲兵学校 同幹部候補生隊 陸軍戦車学校 東部七十二部隊 東部七十三部隊の内より将校、下士官兵の選抜により混成中隊を、昭和十九年十二月八・九・十日、東部七十二部隊に於いて編成をする。(人員は別表の通り)

三八式十五センチ留弾砲の砲身を、チハ車の台

FIG[1].ーモンテルパンの日本人墓地(昭和54ねん11月墓参の折に写す)

上に乗せた。自走砲三門、十一日午後七時頃より品川駅にて搭戦する。その頃の京都は空襲の真最中であった事を記憶している。同日午後十時頃、品川駅を出発する。名古屋駅にて一時間位、京都駅にて二時間位の休息をする。京都駅に於いて中隊長の面会があた記憶がある。時々空襲を受け停止、瀬戸内海は軍の秘密にて眺める事は許されなかった。門司へ十三日頃到着したと思う。車両、自走砲食料品その他段列等の到着を待つが、速州地震のため大変と遅れ、十九日に門司駅へ到着する。二十日、朝鮮部隊の虎兵団、満州部隊の落下傘部隊の輸送船団に分乗し、二十二日に門司港を出発し、ルソン島リンガエンに向かう途中十日間、空襲、潜水艦、魚雷攻撃を受ける。朝鮮|東支那海|春港|台湾高尾、島づたいにルソン島リンガエンに十二月三十一日の夜に到着する。十二時頃陸上の山上で信号弾が数発射ち上げられた。一月一日、夜明けと同時に上陸を始めた。八時ごろ、敵のグラマン、ロッキードの戦闘機が数機飛来し、我が船団に銃撃、魚電撃が激しく、

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上陸がなかなか出来ない。自砲走二門は上陸することが出来たが、後の一門は一万二千トンの青葉山が魚電工劇にて沈没したため、上陸することは出来なかった。早速現地の畑で茄子を取、味噌汁にて朝食を食べた。十日目にて陸地に上陸した喜びは五十年を経過した今でも忘れることは出来ない。十日間の船酔いの疲れを取るため、自砲走車両は林の中に隠し大休止を取ったが、空襲が激しく休んではいられなかった。直ちに山下閣下の元に中村尉と寺田軍曹兵三名程マニラに向かって出発した。
その頃リンガエンに敵が上陸する噂があったので、中隊は一日後の一月二日にリンガエンを出発しマニラに向かったが、昼間は敵の空襲が激しくて行軍は思う様に出来ないので夜行軍である。段列は長嶋准尉、与曽井軍曹、名取軍曹、兵二十名位が、弾薬・食料を整理し、又一日後に出発する。三日後、タルラックにて中村中尉の連絡によると、山下閣下は既にバギョーへ転進し、マニラにはいないとのことであった。中隊は戸惑った。バギョーへ引返そうとしたが、敵がリンガエンに上陸したとの噂もあった。内地を出発するときの命令は、山下閣下の直接配下としての命を受けていた。当地域は江口支隊の作戦地域のため、江口支隊に連絡するもの、江口支隊より柳本大隊より、クラクフィルド飛行場を岩下戦車中隊と協力、鷲見中隊はクラクマルコット飛行場死守する様、命令があった速やかに車両の整備をし、クラクマルコット飛行場に向かった。バンバン迄前進すると、バンバン川の橋梁が爆破され通過不能であった。バンバンの町は、非常に静かで現地人一人もいない。夜行軍にて、下士官兵共に精神的また肉体的に、非常に疲れていたので、バンバンの町の中にて大休止を取、中隊長、分隊長は、バンバン川の渡河地点の偵察に出発した。
偵察を終えて帰える途中、午前十一時頃東方よりB29の爆音が聞こえてくるので、よく東の空を見ると、B29の三機編隊二組が当方に向かって飛来している。注意深く眺めていたら、何かわからないが細い棒の様な物を落とすのが見える。[last sentence of p6 ended on beginning of p7]

誰かが、「爆弾だ、爆弾が」と言ったとたん、中隊の大休止の地点辺りで轟音と爆裂が起きた。急いで返して見ると、自走砲は無事であったが直撃弾を受け、死者五名、負傷者は十数名はいた。火災が起きたので、他へ移動をし手当をした。日暮れを待ってバンバン河を渡河し、クラクマルット飛行場に向かった。マバラカットをダオと二日がかりの夜行車であったと思う。ダオで段列の長嶋准尉、与曽井軍曹、兵達の無事な姿を見る事が出来て喜んだ。
米軍は、一月六日、七日にリンガエンへ上陸、マニラに向かって進撃してくると聞いた。米軍の空襲は、日に日に激しさを増やしてくるのが、友軍の飛行機は一様として見ることがない。制空権は完全に米軍に移っていた。一月二十日頃と記憶しているが、やっとマルコット飛行場に到着した。友軍の日の丸の行機の残骸が、いくつも横たわっていた。飛行場から東北へ進む一本の街道である。日本軍の作戦地図では、一の谷、二の谷、三の谷四の谷、五の谷と名称がついていた。六の谷からのピナツボ山の奥は、急峻な断崖が多かった。この一本の道を友軍、現地の日本人の老若男女、十数万人が丸木橋を渡り、ピナツボ山の奥深くへと逃れた。二の谷に陣地を敷き、段列を置く。林の中で段列には良い場所であった。毎日、毎日、二の谷からクラクフィルドへ出陣をした。完全に制空権は米軍のため、我々の上空にて、米軍観測機が執拗に観測をしているので、すこしの行動も出来ない。発見されれば直ちに、集中砲火を浴びることになる。一発射てば、百発のお返しが来る有様であった。こんな日が、四、五日続いた。クッラクフィルドの戦車加濃砲の砲撃は、日増やして激しくなってきた。一月二十六日の夕方、飛行場にM4戦車があらわれた。初めてM4戦車をみた。一月二十七日、その日は自分を始め分隊員全員は、興奮していた。昨日、M4戦車を目の前にしたせいもあった。
四日間、交戦は続いたが、他中隊は多くの負傷、戦死者も出た様子であったが、自走砲中隊は負傷者も無く、二十七日を迎えた。いつもの通り八時に全員集合し、中隊長の戦況の説明を聞き、それぞれの任務に就く。[last paragraph of p7 ended on  beginning of p8]

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指揮班隊 中隊長 神戸少尉 寺田軍曹 兵三名 第二分隊 小幡少尉 安藤曹長 兵六名 第三分隊 中村中尉 斉藤曹長 兵六名 段 列 長嶋准尉 名取主計軍曹 他下士官兵

午前九時頃、出陣。マルコット飛行場の東北のマンゴ林、其の他大木の下に自走砲を止め敵の様子を伺う。十時ごろより敵戦車ロッキード、グラマン戦闘機の波状攻撃が始まった。観測機が、必要以上に上空を旋回している。午後二時ごろ、敵のM4戦車が現れた。約二時間に亙り、激しい戦車砲撃、空よりロッキード、グラマン戦闘機による機銃掃射も激しい状態で、広い飛行場は、戦車砲、加濃砲が百雷の如く打ち込まれ、土、砂、煙にて何も分からない状況である。一発、発射すれば三分とは同じ場所にはいられぬ、集中砲火を浴びる。[last sentence of p8 ended on beginning of p9]

飛行場を追いつ、追われつの分隊、分隊の各固戦闘であった。四時ごろ、一応交戦は終わった。朝、マンゴ林大木の根元に戻り、自走砲を隠し、小休止を取ろうと、車両の整備をしていると寺田軍曹より兵の伝令にて、中隊長は胸部、神戸少尉は右腕を負傷し、近くの壕の中にて手当をしている、との連絡を受ける。しかし、上空に観測機が飛んでいるので、日暮れを待って、午後六時頃、中隊長、神戸少尉を救出し、二の谷段列へ引き揚げる。鷲見中隊長、神戸少尉を、五の谷の野戦病院へ送る。神戸少尉は右腕を切断する。
一月二十七日、戦闘は激しく、鷲見中隊長、神戸少尉、兵四名が負傷する。特に鷲見中隊長、神戸少尉の負傷により、中隊の戦力は落ちる。一月二十八日は何事も無く一日が過ぎた。中隊の指揮は、中村尉がとることと成った。一月二十九ひもいつもの様に、大木の根元に自走砲を隠し命令を持った。午後二時頃、マルコット飛行場を守備していた、岩下戦車中隊へ、敵の一斉攻撃が開始した。[last sentence of p9 ended on beginning of p10]

FIG[2].上陸地付近で戦闘中の米軍M4戦車
FIG[3].クラーク飛行場付近の岩下中隊の先頭跡

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我々自走砲分隊は岩下戦車中隊へ、援護射撃をする様命令を受けた。我々とも一・五キロメートルと隔てない場所に出陣しているが、広い飛行場は米軍の砲爆撃にて、土、砂、煙を巻き起こし地獄の海である。敵の観測機が、執拗に上空を旋回し、我々の行動を監視し続けているため、行動は許されない。岩下戦車隊とも無線連絡も取れない。岩下戦車隊の現在地も分からない状況である。手探り状態で、敵のM4戦車を攻撃するも、一場所では三分間と停車することが出来ない。百~二百メートルと移動しながら、土、砂、煙をすかして、M4戦車へ直接照準攻撃である。一場所で、二発位しか発射は出来ない。四時頃、少し砲撃が止み静かになったので、分隊は自走砲を林の中に隠し、車両の点検を始めた。その途端、集中砲火を浴びたが、近くに無数の壕があったため負傷者は無く幸いでした。自走砲は、キャタペラが破損したため、修理をしながら日暮れを待った。午後六時頃、日が暮れかかったため、ぼっぼっと段列へ引揚げようとして前方を見ると、暗闇に米軍のM4戦車が三台、こちらを向いている。その時程、驚いた事は無かった。米軍は、我々自走砲には気付いていない前方三台とは六十~八十メートル位の場所である。自走砲のエンジンをかけなくて、まだこちらに運があった。全員が息を殺し、初めて経験をする土壇場の追い詰められた。小隊長小幡少尉以下七名は、これが最後と水筒の水を全員で分けて飲み、互いに手を強く握り覚悟を決めた。運は天にまかした。敵戦車が我が方へ前進したら二発発射すること。二発発射したら、敵中突破して二の谷へ後退する様指示をした。十分、十五分は長かった。敵は我が自走砲を察知していないけど、同じ道路上である為どうする事も出来ない。
二十分位経過したと思った。M4戦車は我が方へ進み出した。同時に自走砲は、直接照準にて二発火をふいた途端、目前が火の海と化すと同時に、私は焼いた鉄棒の様なもので強く殴られる感じを受け、右半身がしびれて動けない。やっと左手にて自走砲につかまり、敵中を突破することが出来たが、二キロメートルを遮二無二後退して、自走砲は停止。[last sentence of p10 ended on beginning of p11]

敵からの砲戦は雨あられと射って来たが、不思議と当たらなかった。止めたのではなくて止まった。操縦手の渡井上等兵も負傷したが、精神力でここまで後退することが出来た。
小隊長小幡少尉戦死、安藤曹長重傷(胸首右足負傷)、弾薬手二名(通信手・無線手)、操縦手一名が重軽傷。助手の小斯波上等兵が、奇跡的に無傷でしたので、小斯波上等兵が操縦して、三の谷へ後退する。段列は二の谷から三の谷へ後退した。段列にて負傷者の手当をして、二時間後、五の谷の野戦病院へ段列の兵に送ってもらうも、鷲見中隊長、神戸少尉は既に、ピナツボ山の信濃山病院の方へ後退して誰もいなかった。バナナの葉を十枚位しいた凹地であった。軍医一人、衛生兵が二名いた。患者の重軽傷は三十名はいたと思うが、呷き苦しんでいた。暗闇にて解らない傷の手当をしてもらい、一夜は過ごすも、傷が痛くて一晩中苦しんだのは私一人ではない。[Last sentence finished on beginning of second half]

何人かが死んでいた。その時、胸の奥深く入った砲戦の破片は、出してもらえたと思っていたが出してなく、戦後五十年たった今も、私の胸の奥には、三センチ位の砲戦の破片が入っています。
朝早く患者に、手留弾が一発ずつ手渡された。病院は、後方のピナツボ山(信濃山)の野戦病院へ引揚げるから、歩行の出来る兵はピナツボ歩いて来るように、歩行の出来ない患者は、その場自決するようにとの指示であった。戦場は、無情である。私は杖にすがりながら、三百メートル位斜面を下りると、そこに壕があり、五、六人患者がいた。頼んで入れてもらい、一週間程、傷の手当をしたら大変と良くなり、十五日目で中隊の段列へ帰ることが出来た。しかしその間、あまり食事を取っておらず、体力は大変と弱まった。中隊の兵達は大変と喜んでくれた。私も大変と嬉しかった。中隊は三ヶ所位の横穴式壕にいた。四の谷の壕である。一つの横穴式壕には、六、七人位しか入れない。負傷兵も、マラリア、アメーバ赤痢の兵も沢山いた。[last sentence of p11 ended on beginning of p12]


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元気な兵隊は、半分もいない。昼間は敵の砲撃、空襲にて壕より出て、用便をする事すらできない。
四の谷より五の谷へ移動するひの、一日前だと記憶しているが、長野県埴科郡松代町出身の児玉豊上等兵が、負傷とマラリアにて、明日をも分からぬ重病人てあった。昼間私に、身の上話をしてくれた。「自分の故郷は軽井沢の近くで、家には妻と、七才の女の子供がいる。妻は不治の病の床、七才の女の子が心配でならぬ。白分[自分?!]はとても生還は出来ない。明日をも分からぬ命だ。安藤曹長、内地へ帰ったら、腕時計を父の形見として妻子に渡してくれ。」と頼まれて、時計を受取ったがモンテルバンの収容所で中隊の書類、戦友の遺骨、遺品は全て没収された。「最後まで、大事に取っておいた黒糖がある曹長は甘い物が好きだから、食べて下さい。」と言って差出したが、私は涙がとめどもなく出て、食べることは出来なかった。その晩、児玉上等兵は、壕中で静かに息絶えた。小指を切って油紙に包み、五の谷へ後退した。壕の中の五人は、死の直前であった。[Last sentence finished on beginning of second half]

負傷と同時に、誰もが自分で精一杯て、他人の事は出来ない。マラリア、デング熱、アメーバ赤痢、シラミ等で食する物は何もない。生きているのが、不思議な位である。あちらこちらの壕は、死人で埋めつくされていた。
中隊は、三の谷、四の谷まで後退していた。その間、大きな交戦は無く、一月二十九日、マルコット飛行場は完全に、米軍の手中となったと聞いた。中隊の将校は中村中尉一人、戦車学校出身の長嶋准尉、斉藤曹長、下士官三、四名、兵五十名位はいたと思う。
二分隊の自走砲が無いので尋ねると、二月八日、マルコット飛行場で、敵のM4戦車を先頭に、二の谷を攻撃してくるとの情報が入り、自走砲は現地に壕を堀、進撃してくる戦車を迎撃するか、それとも、出撃して戦車を爆破するかの二つに意味が分かれ、中村中尉は出撃して、敵の戦車と交戦を主張し、その道を選んだ。斉藤曹長は、前進してくる敵の戦車を壕の中より迎撃の案だったようだ。[last sentence of p12 ended on beginning of p13]

中村中尉は、二分隊の自走砲に乗り、二の谷まで前進したが、敵の歩兵部は既に、二の谷の右側の山の峰に行動をしていた。そこの谷間を自走砲が前進していたので、山上より重機関銃で、自走砲に集中射撃が始まった。たまらず引返そうとしたが、自走砲は引返すことが出来ず、敵の猛射撃により火災を起こし、自走砲は爆破炎上し、小斯波上等兵、他兵四名は玉砕した。生還した河野上等兵の話によると、河野上等兵は自走砲より飛び降り、近くの凹に身を隠した。中村中尉も自走砲より飛び降りた。目の前て炎上する自走砲より負傷した戦友が、懸命に助けを求めているも、敵の射撃が止まず、どうすることも出来ず、日暮れを待ち、段列に帰ったと言った。段列に中村中尉は、帰っていた。河野上等兵が真実を話すと、中村中尉は自分の行動の責任の重さを感じ、中隊から姿を消したと聞いた。その後、中村中尉の姿は、一度も見ることは無かった。本当に気の毒な最期であったと思う。
敵は遂次、バタン街道を、一、二、三、四の谷と物量にまかせ、焼夷弾を射ち、山火事を起こし、何一つなく焼き尽きした後、進んで来る。五の谷が自動車道の最終点で、六の谷からは、ピナツボ山へ登る山道となる。六の谷の入り口に、斉藤曹長は最後の壕を掘って、M4戦車と交戦の準備をした。私の兵は十名位で、機関銃を二丁持っていたが、私が悪性のアメーバ赤痢にて、動くことが出来ない日が二日程続いた。敵は、三百メートル位川の下流にいるとの情報が入る。機関銃は分解し、弾薬、その他の兵器は地中に埋め、江口支隊本部の信濃山へ後退する決心をする。私は歩行が出来ないため、兵隊が私の体に紐を結び、押したり、引いたりして、後退することが出来た。斉藤曹長も二日後、最後の交戦にて、米軍のM4戦車をゼロ距離射撃にて攻撃する。自走砲も爆破して、ピナツボ山(信濃山)に後退する。長嶋准尉、名取主計軍曹は、兵二十名位と食糧を運びながら、既に信濃山に進んでいる。途中、険しい山道を二日程して通過した場所に、鷲見隊長、神戸少尉も大変と傷が快傷し、元気な姿でい

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